日刊ゲンダイの特集
【愉快な病人たち】に
記事を掲載していただきました🙇‍♀️


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拒食症という病気の話しになりますが
同じ記事がネットでも配信されておりますので
よかったらご覧ください。
↓ ↓ ↓

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レシピを見に来てくださっている方には
なんのこっちゃな話しかもしれませんが
私は昔拒食症でした。

ブログにはその頃のことを
たまに書いていたのですが
ここ数年はそれも全然なくなって•••。

今回取材していただいたので
改めて書こうと思います🙇‍♀️






私の拒食は高校生の頃からはじまりました。
0か100、白か黒しかない極端な性格で
何故かテストでは
100点をとらないとダメだと思っていました。

そんなことは親から言われたこともなく
むしろそんなにこん詰めない方がいいと
心配されるくらいでした。

そんな感じで
いつもテスト前はノイローゼのようになり
ある日友達の前で泣いてしまったことがあります。
何か糸が切れたような気がしました。
いつも強そうにしているくせに
恥ずかしさや情けなさでいっぱいになりました。

病院に行けばうつ病。
それも摂食障害との併発です。




それからのテストでは国語100点、数学0点。
そんな数字ばかりでした。
私は70点をとるくらいなら0点がいい。
100点をとれないと思う教科は白紙で提出します。

思えば中学の3年間も高校の3年間も
担任の先生は変わりませんでした。

『あんたは私しか手に負えない』
『おまえは遠くの広い世界に行った方がいい』

先生たちは的確で
難しい性格の私を理解し
助けようとしてくれていたのです。

でもその頃の私には
親であれ先生であれ友達であれ
誰の言葉も届かなくなっていたように思います。
自分の中には病気の自分と本当の自分が2人いて
いつも病気の自分の方が圧倒的に強いのです。







それから時は過ぎ
23歳の時、23キロになりました。

その時限界がきたのでしょう。
胃痙攣が始まって
それがあまりにも痛くて。
こんなにも辛いなら死にたいと思っていたのに
助けを求めたのでした。

救急隊の方に抱えられて
サイレンの音が聞こえていました。
目が覚めたら病院で
よく生きていたというレベル。
血糖値は20でした。

全身のあらゆる脂肪がなくて
体脂肪はエラー表示。
筋肉も燃えた状態で足が立たなくなりました。
そこから長い入院生活が続きます。





私が運ばれたのは市内で一番大きな病院。
ですが、精神科や心療内科はありません。
摂食障害という治療であれば
本来そういう病院に入院するはずですが
搬送の振動で心臓が止まるだろうと。
なので私はそのまま
その病院に置いてもらうことになりました。

大量の輸血、血漿交換、骨髄穿刺
たくさんの治療と検査をしてもらった結果
臓器のほとんどが異常値でした。

そんな中で私の最後の何かが切れて
頭がおかしくなっていきました。
立てないのに歩こうとしたり
足踏みが止められなくなったり
転倒して頭を切ったり。

誰とも話せない。
誰にも会いたくない。
点滴を抜きたい。
もっと体重を減らしたい。

その頃は完全に病気に支配されて
時にはパニックで暴れたこともありました。

所謂総合病院の内科で
完全に精神異常をきたしている私を
先生や看護師さんたちは
どんな風に思っていたんだろう。
多分こんな患者をみたことはなかっただろう。

それでもやさしく、根気強く
寄り添ってくれたことが本当にありがたかった。
けれども拒食症の私にとって
病気を治そうとする人は全員敵なのです。





入院中ずっと付き添ってくれていた母は
どんな気持ちだっただろう。
娘がどんどんおかしくなっていく。
小さなこどものようなことを言いながら。

見守る父はどんな気持ちだっただろう。
『どんなことをしてでも助けて欲しい』と
先生にお願いしていたことは
それからずっと先に知りました。

痩せ細った孫を見て
祖父母はどんな気持ちだっただろう。
食べられないとしか聞いていない祖父は
氷砂糖を持ってきてくれました。

私のせいで家族がバラバラになった時
弟たちはどんな気持ちだっただろう。
力持ちのお姉ちゃんだったはずなのに
最後にはおんぶしてくれたね。
修学旅行のお土産のお守りは
病院で母から受け取りました。




こんなに辛いのに
こんなに苦しいのに
どうすることもできない。
みんなに迷惑をかけていることも
食べたら治ることも知ってるのに
どうしても食べられない。
生きてしまったことを後悔する日々でした。





27キロになった時
無理を言って退院させてもらったけど
それからまた悪くなりました。
幻覚や幻聴もはじまり
私はどんどんおかしくなって
髪の毛も全部抜けました。

昼間は絶対にカーテンを開けられません。
世間が動いているのが怖かったのです。
自分だけが取り残されているようで。

その頃から遠いところに通院して
強い薬を飲むことになり
常に朦朧としている状態になりました。
トイレも行けなくて
ずっと天井を眺めていました。

でも、生きてしまったからには
何かしなければならないという気持ちは
ずっとずっとありました。
申し訳ない気持ちもどんどん膨らみました。

何かしなければ、何かしなければ。
家から出られない
人と関わることもできない自分にできること。
私には料理しかありませんでした。

昔から好きだったんです。
そして私は摂食障害という病気になり
食への羞恥が異常に強くなったことで
たくさんの知識が入っていました。

私には料理しかない。
それからまだまだ時間はかかったけれど
その結果今に至ります。







またいずれ書くかもしれませんが
カフェをやったり料理アプリに参加したり
今に至るまでにはいろいろなことがありました。

その中で始めたこのブログもそう。
料理本を作りたいという気持ちで
出版社の人に見つけてもらいたくて
はじめたものです。

もし私が料理本を作ることができたなら
家族はどんなに驚くだろうか。
そしてどんなに喜ぶだろう。

罪滅ぼしにはならないけれど
明確な夢と目標が定まっていました。
0か100、白か黒かの性格が
役立つ時がきたのです。

自分にできる100%の力を使って
毎日毎日料理しました。
毎日朝晩ブログを書いて
脇目も振らずとことんやりました。

そして僅か半年後
複数の出版社から声がかかったのです。





こんなにも無名で
まだ階段すら登りかねる私と
当時二人三脚で本作りをしてくれた扶桑社さん。
気持ちを組んで
『お母さんを喜ばせましょう!』と
背中を押し続けてくれました。
ずっと夢をみているような気持ちでした。

そしてはじめて作った本を手渡した時
母は泣いていました。

長かった。
本当に長かった。
そして今私の夢が終わった。

目標を失う怖さを感じた時
『次もありますよ』と
扶桑社さんが
声をかけてくれたことのやさしさを
忘れることはありません。









あれから10年以上がたった今
こうして普通に生活していることも
料理の仕事をさせてもらえていることも
改めて信じられないような気持ちです。

普通がなんなのかはわからないけど
当時の私にとっては今が普通なんだと思います。

朝起きて、夜眠ること。
買い物に行くこと、人と話すこと。
そしてごはんが食べられること。

それは夢みたいに遠くて
とても眩しいことだったけど
10年以上経った今そうできていることを
本当にありがたく思っています。






ブログをはじめる前に参加した料理アプリ。
そこでは毎日ランキングが更新されていて
1番になりたいと思いました。

1番になったら何か変わるかもしれないと
そんな気持ちもありました。
病気以外の目標が欲しい気持ちもありました。

突然現れて
どこの誰かもわからない私を
当時から応援してくださったみなさんには
感謝してもしきれません。

今料理の仕事ができるのも
SNSでお付き合いくださる
みなさんのおかげです。
最初にアプリに参加した時からずっとずっと
支えてもらって生きてきました。

居場所をもらって
やるべきことを与えてもらって
それがどんなに幸せだったか。

当時の私に教えてあげたい。
今自分はすごく狭い世界にいることを。
未来にはとってもいいことが待っていると。
たくさんの素敵な人に出会えると。
今は食べられないけど
将来料理の仕事をするようになることを。







摂食障害に苦しんでいる人は
想像するよりきっと多いです。

精神的な病気=心の病気
と思われがちですが
実際そうなった私からすると
脳の病気ではないかと思うのです。
心をコントロールできなくなるから辛いのです。

今苦しんでいる人と
そのご家族や周りの人に伝えたい。

そうなっているのは
あなたが悪いんじゃないから。
病気がそうさせているだけだから。

やりたくないことやってて
ものすごく苦しいと思う。
頭と心が一致しなくて辛いと思う。

でもそこまで自分を追い込める力を
みんなが持っているわけではありません。
だから病気が小さくなった時には
きっと誰よりも
強い力を発揮できるのではないでしょうか。

真面目で負けず嫌い、完璧主義。
そしてその強い拘りが
きっと役に立つ時がきます。
些細なことが気になる繊細さは
誰かへの優しさに変わると思います。